規範とばかり向き合わずに、目の前の人と向き合おう、お客さんと向き合おう、友人と向き合おう、家族と向き合おう。
ゲンロン戦記を今、読んでいる。1月19日の批評イベント、前座配信、東さんの突発、人文ウォッチ、三宅さんのnoteと色々と見たり読んだりする中で、批評や言論の業界内にある空気や伝統みたいなものを考えるようになった。それは業界特有のものではなく、自分の中にも(東さんが言うところの)男子性があると思ったからだ。
ゲンロン戦記のサブタイトルは『知の観客を作る』であり、観客を作ることに関しての記述がバンバン出てくる。東さんはずっと観客を作ることに苦心してきて、だからこそ東さんは批評イベントに対してああいう感想を抱いたんだろう。
そして、東さんは観客と向き合っているし、ビジネスとは大抵観客=顧客と向き合っているものだし、そうやって人々は生きているけど、男子性でいっぱいの人はそのように生きていないような気がする。それでは僕ら(と言ってしまうけど)は何と向き合っているのだろうと考えた。
顧客と向き合うとはなんだろうか。それは審判が顧客だということだ。つまり、顧客が正しいか間違っているかを決める。正しいか間違っているかを顧客が決めるので、事業者側はそれを呑むしかない。
自己満足で正しいか間違っているかが決まる趣味とは違う。趣味は自分が基準になる。これって男子性じゃない?東さんが執拗に言ってた「守られてる」っていうのって結局は自分のうちにこもれること、それが守られているからこそのことなんじゃないか?と思う。
顧客と向き合うと顧客が決定権を持つ。けれど、巧妙なマーケティングを通じて勝ち負けの基準を事業者側が微妙にコントロールすることもできる。それをやっているのが東さんであり、三宅さんなんだろう。
顧客と向き合う人の思想やテクニックに関してはよく分からない。なぜなら僕は圧倒的に自分と向き合ってきたマーケティングフル無視の守られ男子的人間であるからだ。だからこそ弱小noteをずっと書いている。
そっちの深掘りはこれから先ちゃんと考えていかなければいけないものの、その前段階として、自分と向き合うとはなんぞやということを考える。
19日の批評イベントで印象的だったのは、松田さんがずっと『固有名』みたいなことを言っていたことだ。つまり、松田さんは批評をやるならちゃんと歴史を参照したり、紹介したりして、業界ルールを布教しましょうということを言っていた。
これはかなり規範的だなと思う。批評のルールに則りましょう、そのためにはちゃんと歴史を鑑みましょう。それを読者にも紹介しましょう。文体も業界ルールに則りましょう。
これぞまさに自分と向き合うということではないかと思う。
自分というのは単独で存在しない。自分というのは他者との関係性で存在するものであり、他者が具体的に存在しない場合、頭の中に存在する他者が常に自分の目の前にいる。
その頭の中に存在する他者を僕は規範だと思っている。超自我、スキーマ、モジュール、いろんな言葉で説明されるが、そういう自分の中でシュミレートしている他者像がいて、自分と向き合うときは大体そのもう一人の自分、規範と向き合っている。
だからこそ、顧客と向き合わずに自分と向き合っている男子は、自分の中にある規範とずっと睨めっこしている。マーケットの状況がどうとかは知らん。ジェンダーバランスは知らん。想定顧客は誰かなんて考えん。アナリティクスなんて新自由主義的なものはいらん。
余計なものもくっつけたが、とにかく19日の批評イベントで明らかになったのはこうした志向性の違いだと思う。
ここからが地味に重要なのだけれど、この違いが生まれている理由は優劣の問題ではなく、東さんも三宅さんも実業をしている人であり、対して二人は(特に松田さんは批評の)研究者であることが大きいのではないかと思う。顧客相手に商売をする人と今まで歴史やテキスト、文脈を精緻に追っていく人では、基本の考え方や様式美が違っていていも仕方がない気はする。ただ、批評そのものがなくなってしまったら研究するもないのだから学者であろうとも(特に本を出すのなら)顧客と向き合う必要はあるし、顧客と向き合っていて実績も出している人にはリスペクトが必要だろう。東さんも突発でそういうことを言っていたし。
文学部卒でもないし、批評の本もほとんど読んだことがない人間だけれど、東浩紀&三宅香帆への愛で書いてしまった。これが好きを言語化する技術ですよね!!三宅さん!!
これからさらに批評が盛り上がってほしい、そして共同体の中で一人になるための読書がもっと盛り上がってほしいと思ったイベントでした。松田さん、森脇さんもお疲れ様でした。面白いイベントでした。企画、運営に携わった人たちにもビッグラブ、、、
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